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林野庁

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第1部 特集 第2節 これまでの治山事業の取組と成果(1)

(1)森林荒廃・山地災害多発への対応

(江戸時代までの森林をめぐる情勢)

我が国では、古来、森林を多くの経済活動に必要な資源を得る場として利用してきた。建築や各種道具に必要な用材として、又は日々の生活や製鉄、製塩、窯業等の産業に必要な燃料として樹木が伐採されてきたほか、農耕用の肥料として落葉や草木が採取された。社会の発展につれて森林資源の利用が増加し、特に江戸時代には、社会の安定と人口の増加、経済の発展によって、荒廃した森林は全国的に現在よりもはるかに多かったと考えられている。また花崗(こう)岩地帯等では表土が消失したいわゆるはげ山も広がっていた。このような状況は、(ア)大雨の度に土石流が発生する、(イ)山地からの土砂の流出が河床を上昇させ河川の氾濫を助長する、(ウ)海岸砂丘が発達し沿岸に飛砂害が発生するといった災害が多発する一因となったと推察される。

他方、森林を維持・回復させる対策も各地でみられた。山地災害防止を目的として森林等の伐採禁止を命じた最も古い例では、天武天皇が天武5(676)年に、都の造営や燃料採取等で荒廃していた飛鳥(あすか)川上流の山を禁伐とする勅令を出している。

江戸時代には、森林資源の枯渇や災害の発生が深刻化したため、幕府や各藩によって森林の伐採等を禁じる留山(とめやま)(*5)が定められるなど、森林を保全するための規制が強化され、あわせて、防災目的の造林が推進されるようになった。江戸幕府は、寛文6(1666)年には「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)」により、河川上流域の無立木地への植林等の対策を打ち出している。また、同時代には、秋田藩家老の渋江政光(しぶえまさみつ)、岡山藩に仕えた儒学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)など、林政に関する優れた論者も現れ、治山治水の考えに基づく土砂流出防止や水源涵(かん)養、防風、海岸防砂等を目的とした森林が各地で造成された。彼らの思想や取組は、現代の治山治水の考え方や治山対策の源流といえる。


(*5)領主林のうち、入山・伐採を厳格に禁止された山林。



(明治時代における森林をめぐる情勢と治山事業の始まり)

明治時代になると、政府は、明治9(1876)年から林野の官民有区分(*6)(山林原野等の所有区分を明確化するもの。)を実施し、我が国の森林への近代的所有権の導入を進めた一方、近代産業の発展に伴って産業用燃料や建設資材等様々な用途に木材が使われるようになり、国内各地で森林伐採が盛んに行われたため、森林の荒廃は再び深刻化し、災害が頻発した。しかしながら、森林の保全のための対策については、当初は十分に講じられなかった。

その後、明治29(1896)年に起こった大水害を契機に、同年、事実上戦国時代から続けてきた低水工事(*7)主体の治水施策を転換して、連続堤の建設を中心とする高水工事(*8)を実施するための法整備として「河川法」が成立した。また、翌明治30(1897)年には、激化する土砂災害に対応するための「砂防法」も成立した。森林の保全を図るための法整備を求める機運も高まり、同年には森林の保全や森林の経済上の保続を図るため、防災機能を発揮させる森林等を保全する保安林制度と過伐・乱伐を防止する営林監督制度を柱とする「森林法」が成立した。これら三つの法律はまとめて「治水三法」と呼ばれ、現代に至るまで我が国の国土保全施策の根幹をなす法律となっている(資料 特-6)。


その後、日露戦争の勃発による戦費の増大などで工事ははかどっていなかったが、明治40(1907)年から明治43(1910)年にかけて関東地方などに大規模な洪水が相次ぎ、治山治水の必要性が改めて認識されたことを契機として、明治44(1911)年より第1期治水事業が開始された。当時の山林局(現在の林野庁)でもその一環として、山腹工等によりはげ山などの荒廃地を復旧する事業を本格的に開始した。現在ではこれを治山事業の始まりとし、第1期森林治水事業と称している。また、荒廃の著しい流域における保安林指定を進め、禁伐や、施業要件に厳格な条件を課すことで、同事業によって緑化した場所が再びはげ山に戻らないようにした。これらの結果、荒廃した森林は回復基調に入った(資料 特-7)。

資料 特-7 戦前に着手された治山事業の事例
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(*6)正式名称は「山林原野等官民所有区分処分方法」(明治9(1876)年1月29日 地租改正事務局議定)。

(*7)水運等のために通常流量時の水深を確保するための浚渫等の工事。

(*8)増水時の氾濫を防止するための工事。



(戦中・戦後の森林荒廃・山地災害多発への対応)

昭和10年代には第二次世界大戦の拡大に伴い、軍需物資等として木材の伐採が進んだ。また、戦後も復興のために我が国の森林は大量に伐採された。この結果、我が国の森林は大きく荒廃し、昭和24(1949)年における造林未済地は約150万haに上っていた。また、昭和20年代及び30年代には、各地で大型台風等による大規模な山地災害や水害が発生した。このため、国土保全の面から、森林の造成の必要性が国民の間で強く認識されるようになった。

こうした中で、当時の山林局(現在の林野庁)では、昭和21(1946)年度及び22(1947)年度に全国を対象にした荒廃地調査を行い、その結果を受け、昭和23(1948)年には、「治山に関する5カ年計画」(第1次治山計画)に基づいて荒廃地等の計画的な復旧整備が始められた。昭和24(1949)年からは保安林整備強化事業の一環として水源林造成事業が開始された。昭和26(1951)年には森林法が改正(*9)されて保安施設地区制度が新設された。この制度は、保安林の目的とする公益的機能を確保するために治山事業が必要となる場合に、対象となる森林等を保安施設地区として指定することができるものである。これにより、治山事業は森林法上に位置付けられるとともに、保安林制度と連動した体系となった。昭和29(1954)年には、前年に各地で発生した山地災害を受けて「保安林整備臨時措置法」が制定されたことにより、流域保全の視点から河川の流域ごとに保安林の指定等が強力に推進されることとなった。この結果、保安林の面積は、昭和30年代から40年代にかけて大幅に増加した(資料 特-8)。特にこの時期は高度経済成長に伴う水需要の急激な増加の時期に当たり、水源涵(かん)養保安林を主体として保安林の拡充強化が図られた。


並行して、保安林以外も含めて造林未済地への造林が推進された。昭和21(1946)年には造林補助事業が公共事業として位置付けられた。昭和25(1950)年には「造林臨時措置法」が制定され、伐採跡地等の計画的な造林が推進されるとともに、昭和26(1951)年の森林法改正により、伐採許可制と植栽の義務付けが措置された。また、全国で国土緑化運動が推進され、昭和25(1950)年には「荒れた国土に緑の晴れ着を」をスローガンに第1回の全国植樹祭が開催された(資料 特-9)。以後毎年、天皇陛下御臨席の下、全国植樹祭が開催されている。

資料 特-9 第1回「植樹行事ならびに国土緑化大会」(第1回の全国植樹祭)
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これらの取組により、戦中・戦後に発生した荒廃森林はほぼ解消されるとともに、保安林制度等の伐採規制により新たな荒廃森林の発生は抑制されることとなった。

また、日常生活や産業において薪炭から石炭、石油、天然ガスといった化石燃料への転換が大きく進行したことや、農業において化学肥料が普及し落葉等の肥料への利用が行われなくなったことで、森林への利用圧が大きく減少したことも森林の回復を後押しした。


(*9)明治森林法を廃止し、新たに現行法を制定し直すという形式になっている。



(戦後の治山対策の発展)

後世に伝えるべき治山~よみがえる緑~

戦後の治山対策において、長期計画に基づき事業を推進する制度と施工技術の発展が荒廃地の復旧に貢献した。

「昭和33年狩野川(かのがわ)台風(台風第22号)」、「昭和34年伊勢湾台風(台風第15号)」を受けて、着実かつ厳格な長期計画の必要性が政府内で認識され、昭和35(1960)年に「治山治水緊急措置法」が制定され、これに基づき治山事業10箇年計画(*10)が策定された。以降、災害発生状況や社会的情勢の変化等に応じて、9次にわたる治山事業5箇年計画の策定とその実行を重ねることにより、戦後の治山事業は大きな成果を上げた。この間、コンクリート等を使用する大規模な構造物の施工技術の向上、施工条件の厳しい奥地に対応した運搬技術の向上等により、効果的・効率的に治山施設を整備することが可能となり、全国各地で、かつて荒廃していた森林が豊かな森へとよみがえっていった(資料 特-10)。

資料 特-10 治山事業による森林の回復事例
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こうした情勢を踏まえ、平成15(2003)年には森林法が改正され、公共事業長期計画である森林整備事業計画に治山事業に関する計画を統合して森林整備保全事業計画が創設されたとともに、平成16(2004)年に「治山治水緊急措置法」と「保安林整備臨時措置法」が同時に廃止された。これ以降は、成果目標(アウトカム目標)を指標とする森林整備保全事業計画に基づき、継続して荒廃地の復旧・予防等に資する治山事業を展開している。

その後、治山事業が開始されてから永年が経過し、事業完了後に森林が回復して周囲の森林と一体化し事業の痕跡が目立たなくなる事業地が増えてきたことから、林野庁では、明治44(1911)年に第1期森林治水事業を開始して以降100年の中で国土の保全に寄与した治山事業地60か所を「後世に伝えるべき治山~よみがえる緑~」として平成25(2013)年に選定・公表している。


(*10)その後、5か年ごとの計画となったことから、治山事業10箇年計画の前期5箇年計画を「第1次治山事業5箇年計画」と称している。


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