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近畿中国森林管理局

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    餅九蔵と木ノ下谷国有林

     

    餅九蔵植林記念碑

     大津市の膳所(ぜぜ)平尾町の木ノ下谷国有林の入口近く、旧林道脇に「餅九蔵植林記念碑」と刻まれた石碑が立っています。江戸時代の植林功労者加藤九蔵の功績を顕彰するものです。餅九蔵植林記念碑

     表は写真のとおりですが、裏には漢文が彫り込んであります。地衣類が付着し判読し難い文字も一部にありましたが、つぎのとおりです。

     

    昔者膳所藩主嘗建木表以旌九蔵之篤行廢藩後表朽而
    莫復新之者是以今茲後裔有志胥謀更建石以傳之不朽
    若夫行實之詳則別有記而存焉所以不勒於此石也

     

    明治四十五年五月建

     

     すなわち、九蔵の篤行を称える木札を膳所藩主が建て、古くなると更新されていたが、廃藩後は更新されなくなったので、地元の有志が協力して明治45年に石碑を建て、九蔵の業績を永く伝えることとした。詳しい業績は別に記載があるからこの石には刻まない---といった意味です。なお、木札が建立されたのは文化五年(1808)、時の膳所藩主は本多康禎(やすさだ)です。

     「--若夫行實之詳則別有記--」の「詳則記」には詳細が書かれているのでしょうが、その消息をたどれません。ただ、木札の碑文は文献で確認することができます。

     明治時代の初期には、産業の振興を図る観点からさまざまな分野で「共進会」という催しが行われ、林業の分野には「山林共進会」がありました。その山林共進会が明治15年に東京で開かれたとき、孫に当たる加藤市右衛門が関係記録を出品し、九蔵に四等賞が追賞されています。山林共進会報告「履歴の部」には、その業績に加え、木碑の碑文も掲載されています。

     九蔵が逝去した文化五年の雰囲気を感じていただくため、原文をそのまま紹介します。読みやすいよう適宜改行するとともに、いわゆる変体がなは現代かなに変えました。( )は筆者注書きです。

     

    老人九藏か事をしるす

    老人九藏は山林奉行の下勤めせるもの也

    生れつき篤實にして言葉少く能くその職事に志をつくして怠らす

    初め山林の奉行山澗(さんかん)を見めくりしにある一谷ちかや(茅)むはら(茨)の中に杉苗を所々に植置たるあり

    あやしの事に思ひて數多(あまた)の谷々を尋るに亦(また)その如く植置たり

    何者のなせるともしらす普(あまね)く其者を求むるに九藏なる事をしれり

    老人日々勤苦しけき中に少しのいとまある折々朝に雪霜をふみ夕に月星を戴きて人しれすいつの頃よりか植けるとなん

    世の人こゝろは己か職事さへおこたりかちなるに年おひしかもいとまなき身としてかゝるわさをなせるは誠におほやけの事をもて私のことゝ思へる誠の志より出て所謂(いわゆる)陰徳を行ふもの歟(か)

    其苗のよくも生立たるにならひ奉行多の人々に仰せて千々の谷々に藪千萬の苗を植させ給へり

    年々しけり榮へて終に用材とならん事たれ人もしるへき所なり

    かゝる國用のたすけとなれる其功身に取りて少なからすとおほやけの賞を蒙りぬ

    今年文化五年戊辰(1808年)仲春(陰暦2月)十一日七十八歳にして病をもて身まかりぬ

    嗚呼賞すへし惜むへしかゝる誠の志より生たちたる木々なれは一枝をも仇に切とるものあらは天の冥慮にそむかん歟(か)

    もし後世いつれの山林においても用木を切とることあらは

    老人の志を繼て苗木を植置ん事しかなりと臣等に仰せて世俗にきこへ易を本とし其事を書しるさしむ

    よつてその行の百に一を擧てこゝに誌す耳(のみ)

    文化五年戊辰仲春儒臣更井雅善撰

     

     加藤九蔵は伊勢国員弁郡深尾村の生まれ。明和六年(1769年)、39才のとき膳所に来て藩に召抱えられ、山林奉行に属しました。なお、「膳所六万石史」には、「享保十六年に木の下村の八百屋の家に生まれた」とあります。山林巡視が主な仕事でしたが、寸暇があれば相模川上流の木ノ下谷や膳所谷にスギ・ヒノキの植林を行いました。スギは比較的肥沃な土地を好みますので、地味をよく見極めて植え、また、枝を地面に直接挿し付ける「直挿し」を適地においては行ったとの記録もあります。ただ、植林していることを周囲には話しませんでしたので、山林奉行が山林を巡視してはじめて九蔵の行いが知れたというのは碑文にあるとおりです。そのとき、玄米一石を加増されています。

     また安永三年(1774)には苗木植付方に任ぜられて、住民の植樹を奨励したため、安永五年(1776)には玄米五俵を給与され、さらに七年(1778)には玄米五斗を加増されています。

     寛政六年(1794)には藩主本多康完(やすさだ)に召見され、「本多」の「本」の字の紋付布羽織一着を賜与され、さらに、生涯にわたって玄米十俵を給与されたといいます。

     これらの林は成林し、安政元年(1854)の大地震で毀れた膳所城や藩校遵義堂(じゅんぎどう)、粟津(あわず)幻住庵の修復用材として活用されました。

     さて、九蔵が「餅九蔵」とあだ名された理由ですが、「膳所六万石史」によると、九蔵は生まれつき餅が大好きで、伊勢神宮に参拝したとき、一臼二升の餅を一度にたいらげ、その後食事をとらず、普通の人なら早くて一週間を要した道のりを昼夜兼行三日で往復したことがあって、そんなことからこの名が付いたのだそうです。

     石碑のやや下手に「御用池」というため池があります。この池は文化元年(1804)に工事に着手し、文化六年(1809)年に竣工しました。藩を挙げて工事に当たったので、「御用池」とよばれたといいます。

     膳所藩は灌漑池の整備を積極的に進めました。木ノ下谷を上流に遡った山中にある「御霊殿(ごりょうどの)池」は享保九年(1724)に築かれましたし、旱害に苦しんだ隣接の中庄村の庄屋堀池又三郎によって鶴、中、新の三池が掘られたのは寛政年間(1789~1800)でした。

     碑文にある「--ちかやむはらの中に--」という表現からは、九蔵が植林を始めた当時、無立木の草原が広がっていたことが推測されますが、植林とため池の建設により十分な水源が確保され、下流の国分(こくぶ)村や別保(べっぽ)村、膳所村などで新田開発が促進されたそうです。

     木ノ下谷に隣接した膳所谷国有林に、昭和41年に植えたスギ・ヒノキの人工林があって現在「分収育林地」になっていますが、前生樹は大径のスギだったということですから、おそらく九蔵が植えたスギか、あるいは「多の人々に仰せて千々の谷々に藪千萬の苗を植させ給へり」のスギではなかったかと推測されます。コマツナギ(駒繋ぎ)と呼ばれるスギの木がそこにはあったそうで、藩主ゆかりの森林を連想させます。

     

    御用池から上流の森林を望む

    御用池










    [参考資料]

    • 遠藤安太郎著「日本山林史保護林篇」(昭和9年5月15日日本山林史刊行会)
    • 藤原正人編「明治前期産業発達史資料補巻33-山林共進会報告」(昭和47年7月10日明治文献資料刊行会)
    • 農商務省編「大日本農功伝巻之三」(明治25年6月20日)
    • 「新修大津市史9南部地域」(昭和61年11月29日大津市役所)
    • 竹内将人編「膳所六万石史」(昭和58年8月30日立葵会)
    • 竹林征三著「湖国の「水のみち」」(1999年5月サンライズ出版)
    • 牧野和春著「森林を蘇らせた日本人」(平成元年9月日本放送出版協会)

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    滋賀森林管理署

    〒520-2134
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