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天然秋田スギの歴史に学ぶ保護・保存

豊富に存在していた天然秋田スギは、建築材をはじめとして様々な用途に使われ、人々の生活を支えてきました。

しかし、資源は無限にあるものではなく、人々は保護・保存に努めつつ、上手に天然秋田スギを利用してきました。

歴史年表

1.スギ文化の始まり(先史~古代)

秋田県、岩手県、山形県の各地でスギの化石が発見されており、530万年前(中新生後期)にはスギが生育していたことがわかっています。

850年頃(平安初期)には、払田柵跡(ほったさくあと、大仙市仙北町)の外郭(がいかく)の柵木にスギの角材が使われ、1000年頃(平安中期)には、豪族の屋敷であったと思われる胡桃館(くるみかん、北秋田市)にスギが使われていたことがわかっています。

また、驚くべきことに万葉集には、人が植えたスギについて詠んだ歌が掲載されており、この時すでにスギの植林が行われていたことがわかります。

大仙市払田柵跡

大仙市払田柵

万葉集 万葉集

2.大いに活躍した天然秋田スギ(戦国時代)

天然秋田スギの移動経路

伏見城で認められた「天然秋田スギ」

天正18年(1590)に全国を統一した豊臣秀吉は、造船や伏見城建築の際、大きく立派な天然秋田スギ材に注目し、領主である秋田氏らに命じて天然秋田スギ材を献上させました。

  • 文禄2年(1593)大船1艘(そう)分の材木(大割板)を献上
  • 文禄2年頃、淀船30艘分の材木を献上
  • 文禄4年(1595)から慶長4年(1599)伏見作事用板(伏見城建築材)を献上

この伏見城に使われた天然秋田スギ材は、杣(そま、立木を伐採する人)や大鋸(おおが)が伐採し、その総量はおよそ557m3でした。

文禄4年(1596)に伏見城建築のために献上されたスギ板は、長さ2m~4m30cm、幅50~60cm、厚さ13~18cmのもので750枚でした。

慶長元年(1596)の記録によるとおよそ520枚のスギ板をつくるために、1,180人の杣が100日かけて働いたとあり、天然秋田スギから板を造るのは大変な作業であったことがわかります。

 

天然秋田スギの旅

伏見城建築材のスギ材は、米代川上流の天然秋田スギ林から伐採されました。

伐採された材は、筏で米代川を能代まで出し、能代から途中で三国に寄港し、敦賀(現在の福井県敦賀市)まで船で運ばれました。当時は、航路が定まっておらず、天候や集荷の重さなどの状況により、あちこちの港に寄りながら、はるばる敦賀まで運ばれたと考えられています。

また、敦賀までの船運を担った業者の多くは、現在の福井県である若狭、敦賀、越前の者で秋田にもこうした業者が出入りし、能代湊(のしろみなと)は大いににぎわいました。

3.秋田藩による保護政策(江戸時代)

国の宝は山なり

徳川家康により、佐竹義宣(よしのぶ)が転封され、秋田藩が成立しました。

天然秋田スギ材は、徳川幕府から軍役(軍事的な役負担)として上納されたほか、江戸や上方(京都・大阪)でも販売されました。また、久保田(現秋田市)城下町の建設や藩内の鉱山開発などにも大量に使用され、秋田藩にとって天然秋田スギは最も重要な資源の一つでした。それゆえ、藩政初期の家老である渋江政光(しぶえまさみつ)は「国之宝は山也、然共伐盡時は用に不立、盡さる以前に備を立ツヘし、山ノ衰は則国之衰なり」(山林盛衰之大凡考)、すなわち「国の宝は山である、しかし、切り尽くしてしまうと役に立たないので、森林が枯渇する前に森林の保護・保全を図らなければならない。なぜなら山の衰えは国の衰えであるからである」と山林立国を唱えました。

これまでの利用のほか、明暦3年(1657)には江戸大火の復興用材として大量に伐採され、藩内の山林資源は急速に減少しました。

そこで秋田藩は、天然秋田スギの保護・保存を図るため、寛文6年(1666)に留山(とめやま)制度を作り、スギ、ヒバ等青木の伐採を制限しましたが、資源の衰退に歯止めはかからず、その後、3度の林政改革を行いました。

特に、秋田藩の役人であった賀藤景林(かとうかげしげ)が活躍した3度目の文化の林政改革では、林政が根本的に見直され、その後も変わることなく引き継がれました。

4.太平洋戦争と拡大造林(昭和初期)

第二次世界大戦

昭和初期から大面積一斉造林の反省等から国有林に恒続林思想に基づく択伐が導入されましたが、昭和12年(1937)の日中戦争開戦以後、日本は戦時体制時代に入り、軍需物資として、木材需要が急増し、木材増産が推進されました。

昭和16年(1941)3月には、木材統制法が制定され、軍に直接売払う以外は、統制機関を通じて販売されることとなり、民需用材は極度に制限を受けました。

 

戦後復興と高度経済成長

昭和24年(1949)に戦中・戦後の非常時における木材統制は解除となりました。その後、復興材需要に加え、朝鮮戦争による木材の特需や民有林の伐採制限により木材価格は高騰しました。

こうした中、昭和30年頃には、秋田県の天然秋田スギの製材業と樽丸業は、県の基幹産業となり、最盛期を迎えました。

その後、高度経済成長期に入ると伊勢湾台風による木材需要の高まりの影響もあり、昭和35年(1960)秋からは、さらに木材価格が高騰しました。

これを受け、昭和36年(1961)には、木材価格安定の緊急対策が閣議決定され、丸太の供給量を増やすことになり、秋田県からも緊急輸送として、木材列車「あきもく号」が出動し、当時の木材需要に応えました。

こうしたことを背景に、スギ林の施業は、皆伐施業・拡大造林が行われ、天然秋田スギの林は人工スギの林に変わっていき、天然秋田スギの蓄積量は昭和30年頃に1千万m3、昭和40年代前半には5百万m3を下回りました。

 

 

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