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中部森林管理局

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    木曽谷の森林・林業の歴史

    木曽路はすべて山の中である

    島崎藤村の小説「夜明け前」の書き出しで伝えられるように木曽谷のおよそ9割は森林地帯、豊かな自然と森林資源に恵まれた木曽谷の森林と林業はどのように歩んできたのでしょうか。

    豊臣秀吉時代から尾張藩の時代

    さかのぼること安土桃山時代、豊臣秀吉が木曽谷の豊富で優良な木材を利用し始めます。木曽の厳しい自然の中で育ったヒノキは木目が緻密で狂いも少なく加工もしやすいことで、とても重宝され当時大阪城や伏見城などの建築用材として多く利用されました。
    続く江戸時代、将軍徳川家康は木曽を尾張徳川領とし、非常に多くの木材を利用していきます。強度伐採(約80%の良材の抜き伐り)を行い、伐られた木材は築城や造船、土木用材等のために利用していました。
    約100年間に及ぶ大量伐採により、木曽谷の木材資源は枯渇していきます。これを危惧した張藩は木材の伐採量を減らし森林保護政策を設けました。鷹の巣を保護し、鷹の育成を図るために住民の立ち入りを厳重に禁止する「巣山」と、ヒノキの優良林分を小地域で指定し、住民の立ち入りを厳重に禁止する「留山」を設け、森林を保護しました。しかし、資源の減少が止まらなかったため、「停止木制度(ちょうじぼくせいど)」を設けてヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキの伐採を禁止し、それらが木曽五木と呼ばれるようになりました。停止木制度は、俗に「木一本、首一つ」と呼ばれるほどきびしいもので、背いた者には厳罰を処しました。
    そして尾張藩の木曽の森林の管理は、明治2年(1869年)まで続き、藩政奉還により国家の所有する官林となりました。


    ヒノキ


    サワラ


    アスナロ


    ネズコ


    コウヤマキ


    そして尾張藩の木曽の森林の管理は、明治2年(1869年)まで続き、版籍奉還により国家の所有する官林となりました。
    尾張藩による保護政策によって作られた樹齢約300年生の木曽ヒノキ林は赤沢自然休養林で見ることができます。


    冷沢コース


    向山コース


    中立コース


    ~どうやって運び出した?~
    自動車や鉄道のなかった時代、昔の人は山深い木曽からどのように木材を運び出したのでしょうか。
    おおきな木材を人あるいは牛馬で運び出すのは非常に大変です。昔の人は知恵をしぼり地形や谷に流れる水を利用し、いろいろな工夫や仕掛けを組み合わせ効率よく木材を運び出す方法を確立していきます。
    これが木材を流送により運び出す木曽式伐木運材法です。赤沢自然休養林内、ふれあいの道や駒鳥コースでは、当時の運材方法の名残りを見ることができます。また、赤沢自然休養林の交流センターにはその当時の写真や運材模型が展示されています。
    この時代は、木材をまず美濃の錦織綱場(現岐阜県八百津町)に運び、そこから筏に組んで尾張国白鳥湊(現名古屋市熱田区)まで運び出した後、海上輸送によって江戸や大阪に送られていました。

     
    床堰

    これは、赤沢自然休養林ふれあいの道沿いにある床堰という施設です。
    床堰は小沢に堰(ダム)を作り、水を溜めた後に、堰の一部を壊し、水と木材を一気に流し出し、下流へと木材を運び出す施設です。現在見られるのは「床堰」の基礎の一部です。木曽川の支流から本流まで運び出すことを小谷狩り(こたにがり)といい、その小谷狩の最上流部に造られたのが床堰です。


    三紐伐り


    修羅


    小谷狩り


    大川狩り



    神宮備林の時代

      明治22年(1889年)、それまで官林だった木曽の森林は「御料林」に編入し、宮内省御料局が管理経営していました。御料局の木曽支庁は明治36年(1903年)に木曽福島に設置されました。

     
    御料館

    昭和22年(1947年)に国有林に変わると、長野営林局の庁舎として使用され、その後、福島営林署、長野営林局森林技術センター、中部森林管理局の森林技術第一センターとして使用され、平成16年(2004年)に庁舎としての歴史に幕を閉じました。
    旧帝室林野局木曾支局庁舎は、現在、御料館として当時の林野行政の資料等が展示されています。


    そして明治39年(1906年)、木曽谷の御料林の中に、「神宮備林」が設けられました。伊勢神宮では、20年毎に神宮の建物や調度品を造りかえ、新しく清浄な神殿に神様のお遷りを願う「式年遷宮」を行います。式年遷宮は690年から行われおり、鎌倉時代までは神宮の山から御用材を伐り出していましたが、良材が枯渇したため、江戸時代からは木曽谷から御用材を伐り出されるようになりました。
    神宮備林は、20年ごとに行われる伊勢神宮の造営のため木曽ヒノキの供給を目的としており、木曽ヒノキの成長を助け、ヒノキ稚樹を発生させるために、当時は木曽ヒノキ以外の木を中心に抜き切りをしていました

    この当時、
    直径60cm以上で形質優良な木曽ヒノキを「大樹」として台帳に載せ管理しており、大樹は木曽谷全体では18,000本が選ばれ、赤沢自然休養林周辺では2,690本が指定されました。

    またこの時代には、鉄道の発達により、それまで河川を利用して流送していた木材を貨車で輸送するようになりました。これに伴い、鉄道の駅まで木材を運ぶための森林鉄道が建設され、最盛期には木曽谷の総延長が400kmを越えていました。1916年に、木曽谷で最初の、上松駅と赤沢を結ぶ「小川森林鉄道」が完成しました。森林鉄道は、1977年に王滝事務所管内のうぐい川線が廃止され、トラック輸送に切り替わるまでの約60年の間、木材輸送や山村に暮らす人々の足として活躍しました。

     
    森林鉄道記念館

    赤沢自然休養林園地内にある森林鉄道記念館では、当時使われていたアメリカ製蒸気機関車(ボールドウィン)や森林鉄道の歴史的資料、写真等が展示されています。また、隣の森林鉄道乗場では、当時、実際に使われていた森林鉄道を客車にして、赤沢自然休養林内を周遊できます。


    鬼渕を渡る様子
       
    人を乗せている様子
       
    赤沢自然休養林内に走る
    森林鉄道
      
    赤沢自然休養林内に展示されてる
    ボ-ルドウィン


    国有林の時代

    昭和22年(1947年)に、林政統一が行われ、木曽の森林は国有林となりました。
    現在も、木曽谷から式年遷宮で使われる御用材を伐り出しております。昭和60年(1985年)には小川入国有林98林班で、平成17年(2005年)には小川入国有林80林班で「御杣始祭」を行いました。御杣始祭は、式年遷宮の祭典の一つで、伊勢神宮の御神体を安置する器を造る、御樋代木を伐採する儀式です。御杣始祭で伐られた御神木は、化粧がけをし、長さ6.6mに伐られ、赤沢から上松駅まで運ばれ御木曳きが行われます。その後、御神木は木曽川に沿って伊勢まで運ばれます。
     
    御神木伐採跡地

    赤沢自然休養林内の駒鳥コース沿いで、昭和60年に「御杣始祭」が行われました。向かって左の切り株が皇大神宮(内宮)、右の切り株が豊受大神宮(外宮)の御神木です。
    この時は、御神木輸送のために森林鉄道が特別に運転されました。


    三つ紐切り


    御神木木馬運搬


    御神木搬出


    御神木


    林政統一による木曽御料林の国有林への合併により、それまで長野県にあった国有林に奈良井、藪原、福島、上松、王滝、野尻、三殿、妻籠、坂下と上松運輸の10営林署を加えた19営林署を保有する長野営林局ができました。
    国有林となっても森林鉄道は延長され、ピーク時には管内全体で500kmとなり、木曽ヒノキの搬出が続きました。また、戦後の経済復興に伴う木材需要の急増や、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風、昭和36年(1961年)の第二室戸台風の風倒木により伐採量が増加し、昭和39年には128万m3と過去最高となりました。
    現在は、木曽ヒノキの永続供給方針により保護されています。

    また、国民の健全なレクリエーションの場として森林を提供することも国有林の指名の一つとして、昭和43年度から自然休養林の制度化がされ、木曽谷でも木曽御岳自然休養林赤沢自然休養林が設定されました。
    特に、小川入国有林にある赤沢自然休養林は、昭和44年(1969年)に全国で初めての自然休養林に設定され、翌年の昭和45年(1970年)に開園しました。赤沢自然休養林では、昭和57年(1982年)に第一回全国森林浴大会が開催され、その当時の林野庁長官秋山智英によって提唱されたことから、赤沢自然休養林は森林浴発祥の地とも呼ばれています。また、昭和24年(1949年)に赤沢で全国に先駆けてアメリカ製のチェンソー(マッカーラ社)を試験伐りしたことから、チェンソー導入の地としても知られています。


    赤沢自然休養林

    お問合せ先

    木曽森林管理署

    担当者:総括事務管理官
    ダイヤルイン:0264-52-2083
    FAX番号:0264-52-2582